昭和58年12月18日 月次祭
竹内先生のお話の中に、神様の願いが掛けられてある、合楽と言う神の願いが掛けられておる。合楽と言ういうな話を致しておりましたが。それぞれ信心を進めてまいりますと。段々信心が育って参りますと。私の様なものにも、神様がこういう願い、こういう期待を掛けておられるのだなと言う様な事が、実感できるようになります。皆さんどうでしょう。合楽にかけられる神様の期待と言う事は。この信者の一人一人の上に掛けられる願いでもあると思うのです。
あ、ただ熱心に信心しておかげを頂けば良いというのではなくて。神の願いがそこに聞こえてくる。神様に願われておる自覚がまづ出来なければならないと思います。そして足ろうたおかげを銘々が頂いて。どういう神様の願いに対し祀りましても。それにお応えができるおかげを頂きたいと思います。神様が力を貸してくれと言われても、力がなかったら応えることはできません。
ちょっとお金が要るぞと神様が仰るのに、いやぁお金だけは、外の事ならできますけど、お金だけは私はとても持ちませんと言ったことではいけません。どう言う様な事であっても、おうと応えて立ち上がられるおかげを頂きたいと思います。今日はここのねき大変忙しいようでしたが、今日は皆な朝早くからそれぞれの先生方、第一若先生が御大祭の明くる日から、熱発して今日はどれだけ布団を着ても寒うして堪えんと、ガタガタ震えながら寝ておる。と言う事です。
光昭が今日神戸の森さんのお宅の霊祭に迎えられてまいっております。三男幹三郎が今日は、これはもう昨日からでしたけど、桜井先生のお父様が84歳か5歳かで亡くなられまして。ちょうど桜井先生が願うておられた、大祭に差支えが無い様にと言う事でしたが、御自分も祭員になっとられましたから。その終わった後に御国替え、して昨日は新年の為に先生方があちらに参られます。
今日は幹三郎が、あと4人の先生方が朝から参りまして、告別式一切を終わって、ちょうどこのお祭りに間に合う様に帰って来て。今日は斎主の御用を頂いております。今日は朝から栄四郎が御結界の御用をさせて頂く。足ろうとらなければ出来ません。合楽では士農工商が足ろうておるから、どういう咄嗟の場合であってもそれにお応えする事がでけておるでしょう。私は昨日聞きましたけれど、あのう舞の御用頂きました。
光昭の長女ですが、?子ともうします。本来元気で有り難い舞の奉納が出来ましたが。もう明くる日から熱発して学校も休んでおる。家内が今朝から神様の御都合には恐れ入りますね。ちゅてほんとにあの神様の御都合の中に、風邪をひくのであり熱発するのであり。いろんな行事があるのですから、そのことは例えばなら、悲しい事でありましても本当に紙様の御都合に間違いがありませんな、と言うてお礼の言えるいつも心の状態でなからなければならない。
はた困った困った、いや決して困らんで済む、私しはそういうおかげを銘々が頂いて頂きたい。私はその事を家内から聞かせてもろうて、ほんなことね。ほんとに神様のご都合ちゃ恐れいるね。というてお礼を申させて頂いておりましたら、梅の香りを櫻に持たせ、しだれ柳に咲かせたい。もう昔ぁし頂いた御教えを、またありありと頂きました。梅の香りを 櫻に持たせ しだれ柳に 咲かせたい。
そんな馬鹿げた、そんな調子のよか事ばかりできるもんかと。けれども合楽の信心はそれがでけるです。ためには私共はたろうたおかげを頂くためには。どうぞたろうた信心をさせて頂いていかなければなりません。是だけ出来ればよいと言う事ではありません。桜の花のようなほんとうに華やかなおかげを頂きたいと思うなら。桜の花のようなやっぱ美しい、潔い言うなら信心が必要です。
梅の花が持つ香り、それこそ馥郁として香る梅の花の様な、香りのある信心をさせて頂いて、梅の花の様な信心辛抱し抜かせて頂いての修行がなさっておらなければ、梅の花のおかげにはなりません。ほんとに馬鹿程に神様の前には、従順である忠実である。素直である。柳が風に逆らわない様に、それこそ何時も風任せになれれるような、素直な心の信心、このたとえば、梅、桜、柳、の心情と申しますか、そういう信心が段々足ろうてこなければ、桜の花の信心は出来るけど、梅の花の信心は出来ない。
梅の花の信心は出来るけれども、中々頑固で素直な柳の様な様な信心が出来んと言った様なことではなくて。そうした足ろうた信心に精進して行くと言う事が、私しは合楽の信心だと。そういういうなら信心をまた細かく合楽理念は説きます。もうほんとにいつも自然の働きと、交流し続けておれれる信心。御大祭の前の日でした。栄四郎が今度若い世代の方達、青年の方達で、信心の集会を持ちたい、だから会の名前を頂きたいと言うのです。大祭が終わりました後に、発会の集いを致しますそうでございますが。
ちょうど私しがお昼、その餃子ですね、あの支那の。餃子を熱いお湯に浮かして。ちょうど何て言うでしょうか。ワンタン麺の様な頂き方で、今お昼をちょっと軽く内容せき的なものでしとります。その日はぎょうずでした、しかもそのあぁ私しは始めてあんなの頂きましたが。熱いお湯に浮かしてから持ってきますから、たら美味しくて頂き良い。それを美味しい美味しいと頂いとるときでした。なら今度の会は水餃子とつくるがよかばい。あれは水餃子と言うんですかね。支那では。
それを例えば漢字に直しますから。信心の上で直しますと、水の行のざ、おんざの座ですね。お説教の座というざがもうおてらで。水行座。だからまぁ水行座と言う訳にいかんけんすいぎようかいとしたらどうかね。そのすいぎようかいの16日の大祭が終わった後になされたと言う事でございますが。私はその時に申しました。すいぎようと言えば昔は水をかぶったりと言った様な行を水行といっておったが。合楽ではそういう表行的なものを、もう全廃したのだから、どこまでも水の心を心とする生き方を行とする。
そういう信心を芯にしての会であるように、広ければ広く、狭ければ狭く何の不平も不足もあらずということだよね。水行とはみずの心を心とする生き方なんだ。広いから狭いから、何の不足も不平もない。当然にいわゆる水の持つ心、すいしん、そう言う様な事を信心のめざしと言うか、あてとして信心を進めて行く様にと言う風に申しましたら。私の場合は何時も、まぁ笑い話のようですけれども、私がちょうど水餃子を頂いておる時でしたから。水行会と名を銘を打っての会であったらどうだろうかと。
いわゆる水行の合楽で今願われておる水行の内容を身に着けて。そして例えて言うなら、皆さんは水行なさったことのある方は分るでしょうけれども。いわば寒中に水ごりをとると言ったことは、なかなか出来るもんじゃないです。私共は、まぁ朝と晩、お風呂は全然ございませんでしたから。もう朝晩いわゆる水行さしてもらいましたが。やっぱり勇気がなからにゃ中々出来ません。思い切りがなからにゃなかなか一杯の水でも掛られません。こりゃもう夏でもそうです。
夏でも朝水行する事は、そこに一心発起しなければ出来る事じゃありませんが。そういう行をまぁ合楽では止めましたから。そういう水行も辞せない位な、はまりがなからなければならないと言った様な事も申し上げました事でございますが。ただ会を作る会委員になる。そんためにはいうなら水行の一つも出来る位な、勇気を持ったもんじゃなからな出来ん。あっこの辺のところがね。あの信心には大事なようですよ。こうっと決めたらそれをやり抜く。そういう信心、姿勢、構えがね。いるのです。
私しは今日は皆さんに、合楽に御縁を頂いておる方達には先ず、私の様なものにでも掛けられておる神様の願い。例えば、合楽なら合楽と言う、なんらかに幾人かの熱心なご信者がおられる。それは例えば、そこの久保山さんじゃないですけれども、最近まぁ久しくお目にかからんから、私しがお取次ぎさして頂いておる時にゃ、それが久保山さんの願いでした。こういう有り難い神様を頂いて、本当に難しいと思うておった信心が楽しゅうなり、とても和賀心など頂くちゅうな事はとてもと思うとりましたが。
6年7年信心を続けさして頂いとりましたら、いつしか我情が取れ、我欲が取れて、はぁこれが和賀心であろうかと、感じる様になりました。こういう心の状態の過程が、村全体がそういうおかげが頂けれる様になったら、どんなに有り難い事だろうかと。村全体の事を祈ります。お願いしとりますと言うお届を聞かせて頂きよりましたが。私にはそういう願いが掛けられておるんだと思う時に、村全体の事を本気で願わずにはおれなくなって参ります。神様のいうならお願いに応え祀れる。
どうぞと言うても力なしには、叶う事になりませんので。その力を受けるためその力もたろうた力、これだけはもっとるけれど、これだけはと言うなこと本当に何時どんな場合でも、その神様の願いに応えられれるだけの力と、信心を目指さして貰う、目指す眼目がそこにはっきりして、これいっちょうおかげ頂きゃよかと言った様なものではない。そういう私しはあり方にお互いがならせて頂きますとね。本当に楽しいいうならば、天地のリズム天地との交流が段々こう密に成って参りますと、楽しゅうなってくる。
さぁち頭をひねらんでんよか、会の名前が頂きたい、ちょうど水餃子頂きょったから水行会。それには深い深いしかもご神慮と天地への?がりの持てれる、?がりのある内容を持ったものである。もう私しの話を聞いて下さると、もうそう言う事がいつもあるでしょ。そこにいつも天地との交流があっておる。今天地との交流があっていうならおかげを頂いておるから、風邪もひかんのか、病気もせんのか、そんな事はないその風邪の中にも病気の中にも、例えば今日一日の合楽の上にあった事柄の中から思うてみてね。
それぞれのいうなら私しが、私しの手にも足にもなってくれる、いうなら4人の士農工商の子供達がそれぞれにおかげを頂いております。今日は古川先生が鞍手の前田さんのお宅に。4人方の先生と共に新築報告祭や霊祭の為に参ります。日田のある御信者さんのところに、地鎮祭に竹内先生が4名でまいっております。唐津の桜井先生、唐津ですかね。唐津に昨日も行きました。今日もまた4人の先生方が行って致しております。光昭が神戸の方へ朝早くから出掛けております。
ひとっつもこう脇がうがったようで、それがそれぞれに十分な御用が出ける。若先生は風邪ひいて休んでおる。がさぁ今日の月例祭に事欠くかというと、事欠く事も無くこうしておかげが頂けておる。そういう日々の中にです足ろうたおかげ、ためには足ろう。今日私が御知らせ頂いた様に。梅の香りを 桜にもたせ しだれ柳に 咲かせたい。これは神様の氏子ひとりひとり願われる願いである。そんなおかげはとても頂けまい。というのじゃなくてその、梅とか桜とか、柳の信心を自分の信心の上に頂いて。
精進してまいりまして。銘々の自覚、私のような者にでも。神様の好意や願いが掛けられておるんだと。その願いに奮い立たせて頂けれる様な信心して、初めてあいよかけよの信心と言い。あいよかけよのおかげの世界が開けて来る。と言う事におもうですね。どうぞ合楽におかげを頂かれて、どんな人間の幸せの条件の全てを整えてというてもいいでしょうね。それが足ろうてくる。私はおかげを頂いて頂きたいと思います。
どうぞ。